下駄と仏壇とお墓が消える時

短編

昭和が始まった日に生まれた勇造が志したのは塗師(ぬし)。
塗師とは漆芸家や職工として漆を塗ることを生業とする人のことである。
勇造は塗下駄の仕事に就いた。漆との格闘は大変だったが面白くもあった。が、時代は戦争に突入し勇造も徴兵され戦地に駆り出された。

戦争が終わり日本に戻って来ると勤めていた塗師屋はもうなかった。絵が好きな勇造は自分で絵を描いて紙芝居をして日銭を稼ぐことにした。紙芝居で稼ぐコツはその地域のガキ大将を手懐けることである。ガキ大将にお菓子をたくさん与え近所の子供を連れて来なさいと言えばどこへ行っても間違いなく大入りになる。紙芝居稼業で気をつけなければいけないことは少し離れた所から無銭鑑賞する子供である。そんな子を発見した時は紙芝居を中断し、無銭鑑賞の子が帰るまで再開しないのだ。小銭を払って見ている子共逹は一斉に無銭鑑賞の子を白い目で見たり、中にはひどい言葉で罵ったりする子もいる。堪らなくなった無銭鑑賞の子は渋々とどこかへ消えていく。子供という生き物はこういう事には忖度しない、有体に言って非情である。

紙芝居をするのは神社が多かった。月曜はあの神社、火曜はあそこの神社と規則通り回る。行商人への教えとして「先ざきの時計となれよ小商い」という言葉がある。決まった曜日、決まった時間にその地域へ行けということだ。そうするとそこに住む人は、あの人が来たから今何時頃だと確認できるようになってくる。つまり時計になるのだ。住人に時計として認識されるとしめたものだ。その街の住人から違和感なく存在できるのだ。たとえ商品を買おうと買うまいと顔馴染みになると話をするようになり、暑い夏などは軒先きで水を貰ったりと打ち解けることができる。
そんな住人の中には戦争未亡人がいる事も珍しくなかった。勇造はそんな戦争未亡人と仲良くなるとその家に上がり込んで寝んごろになったりする事も時々はあった。

そんな毎日を送っているうちに世の中が少しずつ落ち着き始めた。勇造は再び塗下駄の仕事を始めた。今度は自分が親方としてだ。日本の復興、発展の時代という時代背景に伴い仕事は忙しかった。だが高度経済成長が終わる頃には履物商からカシューで塗ってくれとか化学塗料で安くあげてくれと頼まれるようになった。そんな依頼を勇造は頑なに断った。勇造はあくまで漆に拘った。しかしやはり塗下駄の仕事はほとんどこなくなった。漆に拘ったせいもあるが日本人の履物事情が変わったためでもある。勇造は思った。まさか日本人が下駄を履かなくなるとは、と。

思い切って仕事を大きく方向転換した。勇造は仏壇に目をつけたのだ。仏壇ならどこの家にも必要だし単価も高い。頑張った甲斐があって仏壇の漆塗りで店も再興した。しかし日本の住宅事情、そして日本人はやはり変わっていった。仏間はもちろん床の間すらないのが当たり前になり、その事を何とも思わない日本人が増えたのだ。勇造は思った。まさか日本の家から仏壇が消えるとは。
晩年の勇造はよく呟いていた。今度はお墓がなくなるよと。

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