隠れ家へようこそ。 じゅん爺です。
今日も、お気に入りの深煎り珈琲を淹れて、一息ついています。 この時間が、一番落ち着きますね。
先日、美味しい「金柑たまたま」をいただきました。 完熟した、鮮やかなオレンジ色。 手のひらに乗せると、その可愛らしい姿に、つい顔が綻びます。

可愛らしいキンカンたまたまを、ひとつ口に含んで噛み砕く。 甘酸っぱい香りが、口いっぱいに広がります。 そして、現れる「種」。
「おっと、種だ」
注意深く噛み砕きながら種を小皿に「プッ」と吹き出す。
また別のひとつを食べる。 すると、今度はさっきよりも、たくさんの種が出てくる。
あれ?
同じ木から、同じように育って、同じように私の手のひらに乗ったのに。 口に含むまで、その中身は分からない。 中にある種の数は、ひとつ、ふたつ……、いや、もっと多いものもあれば、ほとんどないものもある。
見た目はどれも同じなのに、中身の「種の数」は、それぞれかなり違う。 「金柑たまたま」は、そんな不思議な果物です。
そして、ふと思ったんです。
「これって、人間にも当てはまることだよな」と。
私たちも、社会という大きな手のひらの上で、一見、似たような姿で生きているかもしれません。 「シニア」というカテゴリーだったり、「父親」だったり。 外見や、役割という「皮」の部分は、よく似ているかもしれない。
でも、その内側。 噛み砕いてみないと分からない、「中身」の部分。
その人の個性、こだわり、経験、価値観……。 そういった「人生の種」の数は、人によって、驚くほど違うはずです。
ある人は、ひとつのことに深く、長く、こだわってきたかもしれない。 またある人は、たくさんの経験という種を、大切に持っているかもしれない。
その「種の数の違い」こそが、その人の「個性」そのものなんじゃないかと、 そう思うんです。
じゃあ、「正しさ」って、どこにあるんでしょう?
金柑としては、種が少ない方が食べやすいから、「正しい」姿とされるかもしれません。 でも、種は本来、生命を繋ぐための、植物としての大切な部分です。 種が多いことが、「間違い」なわけではありません。
人間も同じ。 「種が少ない(画一的な)」姿が、社会的に「正しい」とされる場面もあるかもしれない。 でも、それぞれの人が持つ「種の数(個性)」に、優劣や、正解・不正解なんて、本当はないはずです。
手のひらの上の金柑を見つめながら、そんなことを考えていました。 見かけで判断せず、その人の内側にある「種」を、尊重できる。 この「隠れ家」は、そんな場所でありたいな、と。
さて、珈琲が少し冷めてきました。 次は、ギターの弦を爪弾きながら、この金柑の余韻を楽しみたいと思います。
じゅん爺でした。


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